麺哲支店 麺野郎
28歳で繁盛店の顧問に抜擢されたという、生粋の一流料理人が作る
徹底的に美味しい“麺”にこだわった、つけ麺店
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私は、18歳の時に西天満の芝苑(しえん)という関西料理店のお店で働いていました。ただ、そこに勤めている間に、親父が怪我をして実家を手伝わなくてはいけなくなったので、静岡にある実家に一時的に帰りました。それでしばらくして親父の怪我が治ると、ケンカになってしまって、自分はラーメン屋を始めたという経緯です。
実家も料理屋で魚を扱っていたんですよ。ただ、静岡というのは魚の根性がなくてすぐに弱ってしまうんですね。一方で関西は世界でも指折りの魚の市場があります。自分の周りの料理人の中でも関西に比べたら静岡の魚は劣るものもあるかな、という意見を持っている人間も多いですよ。
親父と色々やっていながらも24~25ぐらいの時には独立して出て行こうとはずっと思っていました。
早く独立したかった。
けれども、いくら身を立てて26歳とかで和食屋をやっても、世の中は認めてくれないんですよ。ほかの料理人より腕が良くなるように頑張ってやってはいたんですが、そういう問題じゃない世界がある。
そんな中、ガチンコラーメン道で有名になった支那そばやさんが実家から1時間程の場所にあり、よく食べに行っていました。当時の佐野実さんは、かなり気合を入れて真剣にラーメン作っているというのが僕に伝わってきました。それが僕がもともと働いていた職場の雰囲気と似ていたんですよ。
黙ってきちっと仕事をする。
そういうことが、ラーメンでもできるんだ、という事でラーメンに決めました。ラーメンがもともと好きだったのもありますしね。
大阪にまた戻ってきた理由ですが、もともとは物件を沼津で探していたんです。けど、それには親父のハンコがいるわけですよ。それを親父が押さなかった。けれども、もう後に退けないので、もともといた関西の人のツテを辿って店をやらせてもらったのが関西でOPENした理由です。
ここの前にやっていたその店のOPENが27歳の時ですね。まぁ、大した話じゃないですよ。
実は僕は“ラーメンをやってる”という意識はあんまりなくて、“お客様の口に合うものを出す”。ただ、本当にそれだけなんです。
その人づてにやらせてもらったここの前のお店はその年の8月にOPENして、翌年の8月一杯まで僕は居ました。大体1年間ぐらいですね。そこを結果的にやめてしまった理由なのですが、OPENから翌年の5月頃にあまりにも行列がひどくなってきちゃったんです。近隣やお客様にも迷惑がかかっているので、どうにかした方が良いのでは、と提案したところ、オーナーが“無視しとけ、お前が殴られたら出ていったるわ”と、整理する為の採用も断られて、3ヵ月後に辞めますといって辞めました。僕はお金も大事ですけど、納得いく仕事がとにかく最優先だと思っていたので、遠まわしに辞めろって意味かな、って辞めちゃいました。
その時の常連さんが熊五郎の社長だったのですが、京都のお店がリニューアルする事になったので、見てほしいという依頼をいただいたんですよ。社長が豊中にお住まいだったので、ご縁ですね。
それで、29歳くらいのときに顧問という立場で5店舗指導をさせてもらっていました。3年ぐらいですね。一応今も顧問です。
それで熊五郎で指導をしながら、この麺哲をOPENしました。もともと兄弟弟子が店長をやっていた居酒屋さんが豊中だったので、その縁で豊中で1店舗目をはじめました。その豊中という場所が良かったですよね。麺哲が始まったのは2003年です。それから2005年12月に海遊館のなにわ食いしん坊横丁ってところにオファーを受けてそこでも出しましたよ。関西系の美味しいものをみんな集めようという事で呼んで頂いたので出ました。八重勝さんという大阪の串揚げ屋さんが出ていて、八重勝さんと一緒にやれるなら本望ですね、という事でやらせてもらいました。<
麺野郎は2007年の8月に出しました。こっちはつけ麺に特化したお店ですから、麺哲と違う特徴を持ちたかったので別の味にしました。調理場を新しく出したら、新しく商品を持ちたいんですよ。
麺哲が世界一新しいラーメンを作るというコンセプトのお店なのに対して、ここのお店は僕が美味しいと思う物を提供するお店です。
今は製麺もこっちになっています。2006年6月に単独の交通事故でひっくり返りました。当時ボルトが15本に入っいたのです。その事故のリハビリ中に麺を運ぶのが大変だったんですよ。じゃあ麺作りもこっちにしよう、ということで、製麺機もこちらに移動しました。
はじめはゆっくりしたもんでしたよ。何にも販促もしなかったですし、場所としては結構厳しいのは解ってましたけど、遠くから来てくださる方もいるので場所さえあればどこだって良かったんですよ。
(製麺室には、大きな製麺機と真空ミキサー!)
僕は麺が美味いラーメン屋さんがゆくゆくは世の中を制覇すると思ってるんです。
ラーメンというのはスープだけじゃ成立しないんですよ。麺を食べた瞬間が美味いかどうかですよね?うちはラーメンは毎日味見するようにしていますけど、実験でスープを取らずにお湯でラーメンを作る時があるんですけど、麺がうまけりゃ食えるんですよ。
なので、まず美味しい麺を作ろうという所から入って研究をしたのが僕のスタートでした。
プライムハードという粉にいきついて、それで名古屋コーチンの卵を使っています。コーチンの卵白のしなりが、麺とぴったりです。烏骨鶏(うこっけい)も試しましたが、ちょっと強いですね。卵黄の味もさることながら、やはり卵白の味がぴったりしてますね。
麺がそこまで決まった時点で、当然スープも名古屋コーチンじゃないと失礼じゃないですか。名古屋コーチンのだしっていうのはやっぱりそのままストレートに使っては、くどいんですよ。麺を美味しく食べるだしを作る為には少し工夫が必要だったので、昆布の一番だしにかつおとさばを入れて合わせてちょうどよく仕上げています。
私は以前実家のカラオケ屋を手伝ってたんですよ。カラオケ屋の店長ってすごい暇なんですよね?その間にラーメンを試作して売っていましたよ。チャーシュー麺って書いて700円で売り出すと、半年でフライドポテトより出るようになりましたね。それは嬉しかったですよ。
麺野郎は食事として楽しんでもらえるお店にしたかったんです。ラーメンにトッピングってつけ麺ならなんでもありですよね。つけ麺っていうのはラーメンの幅を広げてくれた功績があるというのが1つあります。
つけ麺の方がはるかに幅が広いですよ。ですので、かにを使ったり、天然の魚を扱いたい時に、ラーメンは原価が安いので、その美味しい魚をつけ麺を通じて安価で提供することが出来る。僕は出来る限り養殖の魚は使わないようにしています。もちろん養殖の方が味が良い場合は養殖も使いますが。
日本の食文化っていうのは、海外の食文化と比べて“魚の生食をする”という特殊性があって、それがとても大切な文化だと思うんです。ですので、和・洋・中問わず日本で料理する人間は“魚を扱える”という事がどれだけ重要かをしっかり教えています。魚を扱う、和風だしをちゃんと使うとかそういう料理のきちんとした基本の積み重ねが自分の中にあったという事を、そのまま従業員に-も伝えていますよ。
魚というのは一番鮮度が落ちるのが早いので、魚を扱えるようになると、全ての食材が比較的簡単に扱えるようになりますから、従業員にはやらせていますね。
市場に顔を出さない人間は僕は料理人と呼ばないと思っているんです。市場がどうなっているかは料理人である以上知っているべきだし、季節ごとの食材があるじゃないですか。料理を通じて四季を見出さなきゃいけないですよ。
なので、毎週スタッフにも火曜日には市場に足を運ばせています。それは、料理人としての基本的なスキルアップなんですよ。